昨日歩いた廃線跡レポートです。当初は今日行く予定でしたが天気がいまひとつのようで晴れの昨日に前倒し決行です。
今回は近場です。
※Googleマップを借用しております。
今回は赤い線を歩きました。三鷹駅から分岐した中央線の支線、武蔵野競技場線です。
元々は1950年に廃止となった旧中島飛行機武蔵野製作所の軍事引き込み線の二次利用で、1951年運行開始、1951年に出来た武蔵野グリーンパーク球場野球開催時の乗客輸送が目的です。しかし、悲しいことにスタジアムは1年で閉鎖、翌年から運行休止となって1959年に廃線となってしまいました。廃線から60年も経過しておりますが、見所有りましたね。
ちなみに黒い線は武蔵境駅から分岐された浄水場引き込み線です。この路線は12月に探索予定でおります。
これらの軌道跡、Googleマップでこれは軌道跡だと一発で判りますよ。
さて、歩いてみましょう。
JR三鷹駅北口から八王子方面に歩きます。廃線跡を歩く前に
初めて上りました、三鷹車庫跨線橋です。ここkらの眺めが気持ち良いです。
一番右の引き込み線が武蔵野競技場線と思われます。
堀合遊歩道が軌道跡でしょう。
遠いですが遊歩道入り口付近は変なカーブとなっている。この変なカーブが電車が走る独特なカーブなんですね。
この武蔵野競技場線廃線跡にはいくつもの鉄道遺産が見られます。このように境界杭が遺っているんですよね。ここに線路が有った証拠です。
11月下旬とあって遊歩道は枯葉がいっぱいです。
アパートの壁に境界杭発見。
左側に交差点が有るので遊歩道用の横断歩道なし。こういう歪なところが廃線跡の魅力でもあります。
未舗装の遊歩道、雨降ると地面はぬかるんだ状態となるので、それ考えたら晴れの日が良いですかね。
後から作ったぎんなん橋に到着、線路のモニュメントがありまして昔ここを電車が走っていたんだよってアピールとなります。このぎんなん橋ですが出来る前は
橋を渡るとこのような説明看板がございます。今あるぎんなん橋の下には引き込み線の橋台跡が今でも遺っております。中島飛行機武蔵製作所引き込み線時代から有ったってことは戦前から遺っております。貴重な戦争遺産ですね。
ぎんなん橋が出来る前にはこのようにはっきりと橋台跡が判ります。
なんとか撮影出来ました。
こちらの遊歩道は舗装されております。
武蔵野競技場線廃止の後に出来た井の頭通りです。武蔵野競技場線跡は道路右側の歩道と兼用となっております。
歩道と兼用なんだけど道路や周囲の建物に比べ高いのは築堤の影響?これまた歪なんですね。たまりません(笑)
歩いていると
このフェンスは当時のまま?と思われます。廃線から60年経過でも未だ有るってところにノスタルジックな気分となりますね(笑)
そして廃線跡はメインの歩道とは分岐します。
武蔵野市立グリーパーク緑地となります。
ここには横断歩道がございますね。
遊歩道を歩くと看板を発見、関前高射砲陣地跡だそうです。
軍需工場が有ったのでそれを守るために高射砲が有ったそうです。しかし高度10,000メートル上空を飛んでいるB29爆撃機には高射砲の弾が届きません。破壊されて終わりです。この辺りもかなりの空襲を受けたそうです。
今は公園となって高射砲が有った雰囲気はなし。平和な写真が撮れて良かったよ。
どんどん進んでいきましょう。
池のある公園を抜けて
当時は単線と判る軌道幅ですね。
マンションの勝手口ですがこの鉄柵が塞いでます(笑)この鉄柵も当時の物と思われます。
何気にカーブとなっているところが昔、電車が走っていたんだなと感慨深くなります。
のどかな風景もございます。
境界杭発見!
この鉄柵は途中で切れておりました。
これは三鷹駅方面を振り向いたところ、ゴールは近いです。
横断歩道を渡るととても広い武蔵野中央公園が有りました。昔はここに軍事工場が有ったとは思えないですね。
公園には親子連れがレジャーシートを敷いて楽しんでおりました。平和な光景です。
それらししき廃線跡は既に有りませんが最後の直線です。
そろそろ武蔵野競技場駅付近に到着です。
この辺りが駅だったようです。そして何か看板がございます。
中島飛行機武蔵製作所工場正門跡ですね。ここでゼロ戦とか造っていたそうです。
米軍撮影の工場の写真、場所も特定されここが空襲を受けたのでしょう。かなり広い工場であることが判ります。
そして更に北に進むと団地がございまして
ここはなんと
グリーンパーク球場跡なんですね。1951年こけら落とし、5万人収容は約ではなく本当に5万人収容で東京ドームより入ります。センター128メートルって大きい球場だな。突貫工事が災いして砂ぼこりが激しかったり、また、ここを準フランチャイズにしようとしていた国鉄スワローズが米軍から解放された神宮球場を翌年から使えることから、ここを本拠地にすることを断念、わずか1年で閉鎖となってしまったようです。作るのが早過ぎたのか、ちゃんと造っても閉鎖していたかもね。
なので乗客輸送の目的が無くなって武蔵野競技場線も翌年から運休⇒休止線となり、1959年正式廃線となったわけです。ここまで電車で輸送は今考えると、無駄っちゃ、無駄、この距離ならバスでも十分、でも当時は交通の便は電車が一番だったでしょうね。現在サッカーJFLの東京武蔵野シティがこの球場近くの武蔵野競技場(ここは球場より前に存在している)を使っております。
でも1年で閉鎖って当時誰か責任取ったのかな???
当時の試合の写真もちゃんと遺っております。年間プロ野球で16試合、東京六大学リーグを何試合か行ったそうです。
帰りも三鷹駅まで歩きました。夜勤明けの休日、寝なくて正解!(笑)
廃線跡探索が面白いね!